「摂理の御言葉」のことを、よく<真理>と表現するのですが、摂理と出会う前の私は、まさにこの<真理>を求めて、さまよっていました。
言い換えれば、<答え>でしょうか。
個人の人生の<答え>にとどまらず、世界が進むべき方向性の<答え>です。
物心ついた頃から、自身の生き方と、今後の社会の在り方について考え、研究を積み重ねた結果、私個人の限界はもちろん、世の中の限界を感じるしかありませんでした。
旧約聖書に、このように書かれています。
主なる神は言われる、
「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る。
それはパンのききんではない。
水にかわくのでもない。
主の言葉を聞くことのききんである。
彼らは海から海へさまよい歩き、
主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる。
しかしこれを得ないであろう。
その日には美しいおとめも、
若い男もかわきのために気を失う。
(旧約聖書/アモス書8章11節~13節)
これは、今の時代を象徴していると言われています。
物質的には満たされても、精神的には満たされない。
先進国である日本では、特に顕著な問題でしょう。
中には、「いやいや!私は、物質的にも精神的にも満たされてますよ!」という方もいらっしゃることと思いますが。
でも、その満たされた感触が、永遠に続く保障はあるでしょうか。
「そんな先のこと考えたって。今が楽しければそれでいい。」という声も聞こえてきそうです。
でも、本当に、それでいいですか。
このブログを通して、一緒に考えて、<答え>(=<真理>)を導き出せていけたらと願っています☆
Luna