「今、Lunaさん、どこにいるんですか?」
ある日、摂理の可愛いキャンパス生(大学生)Yちゃんから、連絡がありました。
Luna(以下L)「タイだよ~」
Y「今、何時なんですか?」(日本時間22時)
L「20時(ハチジ)だよ~日本は22時(ジュウジ)だよね~」
すると、Yちゃんが予想外の反応をしました。
Y「え!?そんなに時差があるとは!」
え(;゜0゜)!?
Lunaもビックリして、こう答えました。
L「え!?夜の8時だよ!たった2時間だよ!」
そうしたら、Yちゃんが笑ってこう言いました。
「Lunaさんにとっては、たった2時間なのかもしれませんが、私にとっては、2時間は大きいですよ~!」
アーメン(>_<)
なかなか悟り深いご指摘です・・・笑
この時、<感覚>というのがものすごく大きいのだな、と悟ったのでした。
時差のある生活が日常になると、1~2時間の時差は、時差がほとんどないような<感覚>になってくるんですよね。
逆に、日本にずっといる生活をしていたら、1~2時間の時差も、大きな差に感じると思います。
そういえば、Lunaも、初めて時差を経験した子どもの頃は、1時間の時差だけで、大興奮したのですが、その時の<感覚>を、ようやく思い出しました。
私達がどのような生活を送るかによって、知らず知らずのうちに、<感覚>が変わっていくのでしょうね。
信仰も、これと同じくこうなのだと思います。
我々が主を信じて生きても、世の中の側の考えをたくさんすれば、主の感覚が鈍くなって、まるで霧の中の物体を見るようで、主を正しく見分けることができず、考えることもできない。
ある食べ物を食べるとき、その食べ物の味を完全に感じようとするなら、その食べ物だけを食べなければならない。
口の中に2、3種類の食べ物を入れていながらその食べ物を食べれば、感覚が鈍くなって、その食べ物の味を正しく感じることができない。
ただ主だけを心に置いて考えてこそ、主の考えが分かって、分別する。
(2010年12月3日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
この記事のタイトル
人生は感覚だ。
とは、鄭明析先生の御言葉(2010年12月3日)ですが、主の感覚を研ぎ澄ませて、理想的な人生を歩めたらと思います。
Luna