その蝶々が地面を這うようにして飛んでいて、なんだか元気がないような気がしました。
羽に傷があるのかな?と思って、見てみたのですが、特に傷はなさそうでした。
蝶々だったら、蝶々の個性を活かして、もっと羽ばたけばいいのに、羽ばたけきれていない蝶々を見て、その姿が今のLunaの姿と摂理史の姿、広義では、今の社会の姿に重なりました。
ちょうど前日に、こんな話しを聞きました。
月明洞には、松の木がたくさんあるのですが、松の木を剪定する際に、切る必要のないところを誤って切ってしまうと、それ以上大きく育たなくなってしまうそうです。
余分な枝葉は切らねばならないけれど、どこを切るべきなのか、しっかり見極めてから剪定しなければ、松の木の命に関わるそうなのです。
それで、あぁ個性を大切にして、個性を活かした管理をしなければならないのだなぁ、と思いました。
個性を大切にして、個性を活かした管理をしなければ、大きく育つべき人が大きく育つことができない。
みんな同じように育てても、それなりの松の木の人生を歩むことはできるかもしれないが、個性が活かされていないから、イキイキとはしないだろう。
だから、美しい蝶々が自信を持って、自由に羽ばたくべきところを、遠慮しがちに羽ばたくように、もったいない人生を生きるようになる。
羽ばたけきれない蝶々を通して、神様がそう啓示してくださった(メッセージをくださった)感じがしました。
その日の主日の御言葉が、こちらです。
失った人を探してきなさい。
私の命たちを連れてきなさい。
自己管理、命管理、もらったものの管理だ。
(2016年6月19日 摂理・鄭明析牧師の主日の御言葉)
いつも聖三位と主には間違いがないけれど、私達がたくさん間違って行なったことによって、多くのものを失ったことを認めざるを得ません。
悔い改めて、最後の機会には、必ず得るべきものを得ることができますように。
天から授かった各自の個性が、この世の中で尊く貴重に用いられ、活かされた時に、憎しみや争いのない、歓喜と幸せに満ちた地上天国を、私達が成すことができるのだと信じます。
Luna