こちらのブログの続きです。
声帯ダメージの悟りー私は御言葉を叫び伝えるために生きている
声がかすれる、のではなく、声が全く出ないという状況になったのは、生まれて初めてのことでした。
そもそも、声が全く出なくなる、という事実を知らなかったかもしれません。(考えたことがなかった、というのが正直なところ。)
生まれて初めて声が出なくなって、ものすごく不便を味わいました。
ささやき声なら、できるのですが、ささやき声は、声帯にもっとダメージを与えるそうなので、ささやき声も控える生活が始まりました。
つまり、無言で過ごす日々。
誰かに何かをどうしても伝えたい時だけ、ささやき声で、話します。
(もしくは筆談。)
声が出ないと、まず、賛美ができません。
神様に栄光を帰すことすらできなくなるのですね(>_<)
1人で買い物へ行って、店員さんが話しかけてきても、思うように応対することができません。
親切にしてくださっても、「ありがとうございます」の一言も届かないから、お辞儀だけしたけれど、相手に感謝の気持ちが伝わったか分からなくて、なんだか悲しい思いをしました。
家で、家族が遠くから大声で話しかけてきても、声が届きません。
「あ、そっか、Lunaちゃん、声出ないんだったね。」と家族だから分かってくれて、近くに来てLunaとやり取りしましたが、これが家族側からスタートする会話ではなく、Luna側からスタートする会話である場合は、もっと大変です。
肩を叩けるくらいの近さにいない限り、どんなに近くにいても、Lunaの声が聞こえないので、Lunaが何かを発したいことに気づいてもらえません。
また、相手が、Lunaに話したいことがあると分かってくれて、近くにいたとしても、声が出ないから、極力、必要最小限の会話になります。
不便な思いをして、神様の心情を悟りました。
神様も、肉体は持っていらっしゃらないから、いつも、人間に話したいことがたくさんおありなのに、その声が届かなくて、とても悲しい思いをされていらっしゃるんですね。
私たちが先に神様を呼び求めれば、神様も、心に感動をくださって、いくらでも対話してくださるけれど、私たちが神様に関心を寄せない限りは、神様がすぐ側にいらっしゃることにすら気づきません。
だから、神様がどんなに心情をやきもきされて、どうにかして私たちを悟らせようと大きく働きかけてくださっても、神様の思いがひとつも届かないのですね。
伝えたいのに、伝えられない、その心情。
それが、どれほど悲しいことでしょうか。
声が出なくなって、初めて分かるようになりました。
賛美をする前に、神様の心情を、分からなければならないですね。
霊の世界でイエス様がのどが痛いほど叫んでも、私たちの肉の耳には聞こえない。
私たちが祈って精神と心と考えを一倒し、霊の世界に入って行ってこそ、主がおっしゃっても、私たちの心の耳でその声が聞こえる。
(2011年8月27日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
毎日、のどが痛いほど叫ばれていらっしゃる聖三位の心情を、Lunaが、本当に分かっていなかったのだと、悔い改めました。
Luna