この御言葉、とっても心に響きました。
主の頭に「その教会に一人も思い浮かぶ人」がいなければ、その教会については真っ暗で、心が向かない。
<主の頭に思い浮かぶ人、一人>は必ずいなければならない。
教役者であれ、誰であれ、いなければならない。
(2017年1月11日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
CAとして毎日世界中を飛び回り、教会で目に見える使命がない(できない)Lunaは、時に、「牧師や聖歌隊など、教会で、目に見える使命がある人は、誰にでもわかりやすいし、みんなに認められていいなぁ」と羨みます。(牧師さんと比べるとか、さすが生意気なLuna・・・笑)
信仰生活において、気にすべき対象は、ひたすら神様。
だから、人にどう思われようが関係ないし、そこに焦点を置くのは根本的に間違えているのですが、
「Lunaだって、毎日主と対話しながら、世界を飛び回り、ブログも書いて、こんなに信仰生活頑張っているのに、教会で、みんなの目に明らかに見えるような使命でない限り、ただ忙しい人、教会に何も貢献していない人であるかのように思われることもあるのだなぁ・・・」
と、たまに本当~に切なくなります。
「信仰生活の核は、教会にどれだけ行くか、教会の内外でどれだけ肩書があるか、ではなく、各自の生活の場でどれだけ主と対話しながら生きるかだ」
と言い聞かせながらも、やはり、たまに本当~に切なくなるものです。
しかし、そんな思いになるのは、Lunaの考えの中に、「人から認められたい」という、神様中心でない、不義なるものがあることを否めないですね。
はい、また、今日も恥さらしのブログになってしまいました・・・笑
ある日、この件について、あまりに悩んでいたLunaを見つけて、優しい女性牧師さんがこうおっしゃいました。
「目に見える使命がなくても、主は、愛の使命者を、各地に配置なさるものだよ。愛の使命者も、いなければいけないからね。」
と。
その一言で目が覚めて、ここ数か月、悔い改めて、ずーっと涙でお祈りしていたことが、
「私が目に見える使命に捉われないようにしてください。」
ということでした。
「私が目に見える使命に捉われないようにしてください。人を見ることがないようにしてください。教会で、特に目に見える使命がなくても、既にCA、摂理ブロガーの使命をくださったし、また、何よりも、愛の使命を主がくださいました。この使命を本当に尊く思って、これまで感謝して生きてこれなかったことを本当に悔い改めます。あまり教会に行けなくても、この教会のために祈る、愛の使命者が必要だと思いますので、私がその使命者として主人意識をもって、毎日、主に愛を捧げます。それがどんなにか大きな使命でしょうか。本当に感謝します。毎日、明け方から、主の前に愛で進み出て、ただ愛で、明け方の祈りの祭壇の火をつけることができるようにしてください。」
もちろん、Luna一人だけが、<主の頭に思い浮かぶ人、一人>だと思っているわけではありません。
それでは傲慢ですね・・・笑
みんながみんな、<主の頭に思い浮かぶ人、一人>にならなければいけないし、みんながみんな、<主の頭に思い浮かぶ人、一人>でしょう。
でも、目に見える使命に捉われて生きていたら、知らず知らずのうちに、主と遠い人生になっていくと思うのです。
摂理の信仰生活の核は、愛。
目に見える使命があっても、なくても、核は、ただ主への愛。
愛が満ちていれば、何をしても、いつ、どこにいても、摂理の中でも外でも肩書があってもなくても、<主の頭に思い浮かぶ、一人>で居続けられるでしょう。
今、Lunaの心に、以前にも増して、主への愛が満ちているから、これまで以上に、<主の頭に思い浮かぶ人、一人>であることの喜びと感謝と自負心があるのだな、と思いました。
Luna