美女と野獣、私と主


摂理の仲良しお友達と一緒に、「美女と野獣」を観に行ってきました~!!

1991年に制作されたディズニーアニメーション「美女と野獣」の実写リメイク作品です☆

3Dメガネを持って、準備万端♪

  
有名なお話しなので、ご存知の方も多いと思いますが、あらすじは、こちらです。

ひとりの美しい王子が、呪いによって醜い野獣の姿に変えられてしまう。魔女が残した一輪のバラの花びらがすべて散る前に、誰かを心から愛し、愛されることができなければ、永遠に人間には戻れない。呪われた城の中で、希望を失いかけていた野獣と城の住人たちの孤独な日々に変化をもたらしたのは、美しい村の娘ベル。聡明で進歩的な考えを持つ彼女は、閉鎖的な村人たちになじめず、傷つくこともあった。それでも、“人と違う”ことを受け入れ、かけがえのない自分を信じるベルと、“人と違う”外見に縛られ、本当の自分の価値を見出せずにいる野獣──その出会いは、はたして奇跡を生むのだろうか…?
TOHOシネマ「美女と野獣」HPより

もともと、このあらすじが、まるで「私と主」のようだったから、映画を観に行こうと思ったのですが、ストーリーが進めば進むほど、その確信が強まりました。

小さい村で、「変な人」と言われていたベル。
けれども、賢かったゆえに、「変な人」と言われていたのであって、途中、困難は多かったけれど、結局、最後には呪いを解き、最も幸せな人生を送ることができたのは、ベルでした。

いつの時代も、聡明で進歩的な考えを持つ人は、「変人」扱いされるものです
その最も象徴的な出来事の一つが、イエス様の時代に、イエス様が殺されてしまったことでしょう。
イエス様に従った弟子たちも、イエス様と同じように「変人」扱いされ、殉教の歴史が続きました。
しかし、彼らの多くは、現在、キリスト教史において、聖人と称えられています。

ベルが野獣の外見にとらわれていたら、野獣を愛することができず、呪いを解くことはできなかったでしょう。

しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけだけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(旧約聖書・サムエル記上16章7節)

という聖句を思い出しました。

今、この時代も、「主を正しく見ることができない」呪いにかかっているかもしれない。
もし、そうだとしたら、その呪いを解く人は誰だろうか。
私達が、その人になりたいではないか。
主は、私達が思っている姿でいらっしゃらないかもしれない。
野獣の姿でも、おばさんの姿でも、おばあさんの姿でも、乞食の姿でも、どんな姿であっても、主を主として迎えるためには、私達は何を備えているべきだろうか。
どのような心を持って生きているか。
それが最も大事なことではないだろうか。

最近の御言葉を思い出しました。

一度主を信じて認めて従ったなら、見えるとおりに判断してこんがらかることがないようにしてください!
主がどんな環境で、どんな姿で現れても、こんがらかってはいけません。
神様がお使いになるので、時代の状況とその時その時の環境に従って服も着るし、扮装もするし、さまざまな姿で現れます。
一度「男だ。女だ」と確認したなら、また確認しなくても「その存在、その性別」です。
これと同じく、<主>が環境に従って服を着替えても、最初告白したとおりに、見たとおりにです。
いつもどこででも、ただ「神様の御心」だけを行なって行きます。


(2017年4月19日 摂理・鄭明析牧師の水曜日の御言葉「<その年齢の時、その時代に該当すること>は、天のことも、地上のことも行なって終わった。」)

美女と野獣。
私と主。
主がどのような姿でいらっしゃっても、主の心を見る、心の美しい女性になって、
主がどのような姿でいらしゃっても、変わらぬ愛で、主に接し、
主を間違って認識する世の中の「呪い」を解いて差し上げる、
そのような新婦に、私はなりたいです。

言うは易し行うは難し。

言葉より実践だ。
(摂理・鄭明析牧師の御言葉)

言葉ではなく行ないでもって、そのような生を生きる人になりたいです。

Luna

ABOUTこの記事をかいた人

摂理(キリスト教福音宣教会)で信仰生活を送る現役CAです。世界で初めて有人動力飛行に成功したライト兄弟は、牧師の子どもであり、敬虔なクリスチャンでした。時を越えて飛行機と関わるようになったLunaが、鄭明析先生の御言葉と共に各地を飛び回りながら考えたことをお届けます。ブログをご覧いただく皆様の人生のフライトが、いつもハッピーでありますように☆